待てない時代に「待つ」

ウエイクアップ・伴想人メンバーの
オグこと小串記代です。

私は、生命の息吹を感じる春が
大好きです。
春の訪れを待つ心は、
過ぎた一年の出来事を
あれこれ振り返りながら、
桜の美しい姿や
それに続く新緑の季節を待つ
楽しみを育みます。

今年は、あれこれ思いを馳せる間もなく、
春が訪れた感じです。
そう、
「待つ」時間がなかったのが残念です。

季節だけではなく、最近は
「待つ」という感覚が少なくなってきた
と感じます。
待てなくなった自分がいます。

テクノロジーの発達は、利便性や効率性を
飛躍的に高め、待たなくてもよい生活を
あたりまえの日常にしました。
「待つ」ということは、今では
ネガティブな感覚さえ生み出します。
人の話を聴くときにも、意識していないと
思わず自分の言葉が
溢れだすことがあります。

相手の言葉を最後まで聞かずに、
「こういうことよね」
「それなら、こうしたらいいじゃない」
勝手に自分の頭の中で想像して、
前のめりに先を急ぎたくなる
ことがあります。

「いや、言いたかったのはそうではなくて…」
と撃沈される失敗が
家の中ではしばしば起こります。
そう、気が緩むと、いつの間にか
私は「おはなし泥棒」。

聴くことは待つこと、待つ姿勢そのものです。

相手の考えや思いを言葉として
真に受け止めるには、
相手が心の中で十分自身と向き合い、
自分の心の中を覗いて言葉を紡ぎ出す
間(ま)をとることが大切です。

時に重い沈黙が訪れることもあります。
相手との沈黙が続くと、
その居心地の悪さから
次の質問の弾込めを自分の中で準備し、
無駄な言葉を発していないか、
自問しつつ反省します。

ある対話セッションを初めて運営した時、
場が沈黙につつまれたことがありました。
沈黙の時間はそれぞれが思考を深めるには
必要な間(ま)だと理解していても、
長い真空状態にいるように感じるものです。
私はその息苦しさから、
不要な自分の言葉で沈黙の隙間を
埋めようとしたことがありました。

思考の邪魔をされた参加者は、
私の話に身を委ねるようになります。
思考が受け身に転じる瞬間です。
自分で自分の心を覗く機会を
奪われたのですから当然です。
そして、対話は表面的に流れていく…。

人は待ってくれるという
安心な場があってこそ、自分の心を
言葉にできるのではないでしょうか。
待つ側の沈黙を待てなかった
一度の行動から、
相手は敏感に何かを感じとり
口を閉ざすのだと思います。

待つということは、待つ側にも
自分の心の動きや
状態を内省する機会を与えます。
自分自身の相手に対する姿勢を
映す機会に思えます。

沈黙は、相手が自分と向き合い
心の声を聴く機会です。
相手が次への一歩を踏み出す力の素を
自分で発見できるように、
その豊かな瞬間に静かに寄り添って
いこうと思います。

「待つ」姿勢は聴くことの基本ですが、
待たなくなった日々を生きている私たち
だからこそ、「待つ」ことが
自分と向き合う豊潤な時間になると、
あらためて心にとめておきたいことです。

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