ウエイクアップ・伴想人の尾関春子(おはる)です。
歩くことが好きで、ひょんなことから最近
「四国八十八カ所巡り」を始めました。
東京と四国の往復を含む数日間で
いくつかの札所をまわる旅を繰り返す
所謂「区切り打ち」方式です。
ウォーキングや旅には、思考を整理
できたり、普段は考えないことを思いつく
といった効用があると言われます。
昨秋私の八番から十一番札所までの
二日間の歩き旅では、
「まるで〇〇のようだ」と思う出来事や
プロセスがいくつもありました。
コーチングの「比喩のスキル」とは喩えの
ベクトルが逆向きかもしれませんが、
私の遍路みち歩き小咄を以下に少々。
八番から九番札所に向かう途中で
遍路みち(札所をつなぐ道順)から少し外れ
資料館に寄り道した後、
近道をとおり遍路みちに戻ろうとして
道に迷ったときのことです。
徳島の広大な青空と田園風景のど真ん中。
整備された道が何本も通っているものの、
通る車も遍路みちの標識も少ない。
立ち止まり地図を矯めつ眇めつしていると、
背後に車が停まる気配が。
親切な地元の方が声をかけてくれるのかな
と思いつつ、
地図上の自分の位置がわかったので
顔を上げ歩きはじめたところ、車は
そのまま静かに立ち去ったのでした。
目指す九番札所に向かいながら思いました。
「まるで、迷えるメンティー(クライアント)
と、助言したくなるのを我慢し自走を見守る
メンター(コーチ)のようだ。」
九番に続き十番札所を打った後、計画では
(徳島県北部を西から東に流れる)
吉野川の北岸を東に歩き大橋を渡り、
川の南岸にある徳島線鴨島駅に着くはずでした。
ところが十番札所から吉野川に向かう途中で
曲がり角を見落としたらしく、気づけば
背後にあるはずの午後の太陽が右手方向に。
どこかで道を間違えたかな
と首をかしげながらも
家並みの間を歩き続けると、
遍路みちの標識を発見。
ほっとして進むと
正面に忽然と土手が現れました。
自分はどこに向かって歩いているのか?
訝りながらも土手の階段を上ると
眼前に吉野川の雄大な景色が。
私は迷わず前進し土手の向こう側に
降りていきました。そこが
日本最大の中州「善入寺島」への道
である旨の案内標識を読み、
その先の景色を見たくなったからでした。
西日を全身に浴びながら
見渡すかぎりの農耕地を進むうちに、
憧れの潜水橋(沈下橋)が眼前に。
「道を間違えたから潜水橋に出会えた!
結果オーライ!」と
スキップしそうになりながら渡りました
が、喜びも束の間。
歩いても歩いても吉野川の対岸が
見えてきません。
農作業を終え島(中州)の外に
帰宅する軽トラックがときどき通るほかは
人影はほぼゼロ。
日はどんどん傾き空は夕焼け。
カラスや鳶も木立に帰り始め、
心細くなる一方。
「…自分は大変な道を選んでしまったのか?
予定していた道を進めていれば
安全確実だったのか…?」と焦りながら、
(風光明媚で有名と後で知る)もう一本の
潜水橋を小走りで渡ります。
吉野川南岸に辿りつき、
予定していた鴨島駅より2駅西の
阿波川島駅に到着したときには
辺りは暗くなっていました。
帰りの車中で
地図をじっくりと見たところ、
当初予定の鴨嶋駅に戻るルートも、
実際に歩いた阿波川島駅へのルートも、
いずれも十番から十一番札所への
オフィシャル遍路みちとして載っていました。
要は私の予習不足だった訳ですが、
道中を振り返り
「まるでキャリアや人生のようだ」
としみじみ思ったのです。
敢えて選ばなかった道、
そこにあったのに気付かなかった道、
実際に歩んだ道、
俯瞰してみればいずれも「あり」
と肯定できると実感しました。
旅は人生、人生は旅。
日常の出来事にも人生の縮図が
詰まっていそうです。