「うけたもう」の精神とは?

ウエイクアップの池田佐佳子(さよこ)です。

いつもはCTIのコーチングコースや
企業でのコーチングコースといった
様々なプログラムのリードをしています。

5月末、昨年に引き続き 那須岳にて
山伏修行(抖擻/トソウ)を体験してきました。

*昨年の山伏修行体験の記事*
思い込みの功罪の話

今年は昨年のような思い込みを手放して、
素直に無邪気に一瞬一瞬感じたままでいたいと
トソウに臨みました。

ところがどっこい!
暫く登り 木々が無くなり
活火山らしい那須岳の岩肌が見え始めた頃、
「見晴らし良いなぁ〜」と思ったのも束の間、
ものすごい強風が吹き荒れ始めたのです。

まさに立ってられない程の強風が、
横から後ろから正面からやってきて、
何度も岩場に足が取られ転びそうになりました。

実はトソウの際は、無言でいるという約束事があります。
私たちが口にしてい良いことは、
祈りの言葉と山伏の先達が指示した際に
「うけたもう」と応える言葉のみ、となっています。

さて「うけたもう」の精神とは
一体どのようなものなのでしょう。

どうもこれはすべての事に対して良いんだよ、
何でもOKということではなさそうです。

現に私は何度か先達に叱られたことがあります。
昨年はトソウ後の温泉で大きな声で喋っていたのを
「声がデカい!デカ過ぎる!」と叱られました。

私のデカい声は「うけたもう」されませんでした・涙

今思い返すと、心の中のドンとあった“思い込み”に
無自覚なままベラベラと好き勝手に喋っているばかり、
恥かしい限りです。

他の方の話では、思い切って自分が感じる
課題感と改善案を先達に進言したら、
「全然うけたもうしてないじゃないか!!」と
叱責されたといいます。

何に「うけたもう」して、
何に「うけたもう」しないのか?

この事は一緒に参加した知人とも話題になりました。

「うけたもう」できないことってあるけど、
そんな事でも「うけたもう」していくこと?
いや無理だろう、それやっていったら自分が苦しくなる。

一方で、起きたことに対して、相手に対して、
批判的・否定的に見ている時の自分と、
「あぁそういう事もあるんだ、
 そういう考えの人もいるんだ」と見ている時の
自分の【あり方】には、大きな違いがある。

単に自分が想定してなかった事が起きているだけなんだ、
または単に自分と違う考えの人なんだ、と思う時、
私は苦しくない、むしろ興味関心を向けていて、
想定外を楽しんですらいる。

その事に気付いた。←今ココです。

「うけたもう」の精神って一体なんでしょう?

先達に質問したら「自分で感じろ!」
と怒られるはずです、きっと。

【おまけトーク】

今年は昨年の失敗から学んだ発汗機能のあるTシャツを
購入し暑さ対策万全で臨んだのですが、
強風のお陰で歩いていても寒さを感じるほど。
汗はまったくかくことなく終了しました・笑

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