ネクタイの旦那

小枝に止まるシジュウカラ

ウエイクアップの山田希です。

今は亡き祖母の自宅には庭があり、メジロやシジュウカラがよく訪れていました。晩年、足を悪くして移動が難しくなった祖母は、プラスチックの皿にひまわりの種を入れ、窓際に置いて小さな友人の訪問を楽しんでいました。

ある日「またネクタイの旦那が来たよ」というのでふと見ると、シジュウカラがちょうどひまわりの種をついばんで飛び去っていくところでした。シジュウカラは胸のところに縦に黒い筋が入っていますから、祖母はそのように呼んでいたのです。

本人や対象の名前を呼ばずともその人やモノを指すというやり方は古今東西で使われてきました。国際サスペンス小説などで「ワシントンはどう言ってる?」といえばアメリカ政府のことでしょうし、噺家のエッセイで「○○町の師匠」と言えば、特定の落語家を言ったりします。

新人時代に営業部門に入った私も、イニシャルやら地名やらが飛び交う会話に、始めこそ暗号文を聞いているような気がしたものの、そのうちに情報漏洩リスクを叩き込まれ、自らも気を付けるようになっていきました。情報化時代には情報の扱い一つが肝となることを、肌身で感じてきました。

一方、コラボレーションの時代になってくると、今度はどう情報を共有していくかが肝になっていきます。パスワードを忘れた、といった技術的なこともさりながら、イニシャルや隠語で表されたものが何を表しているかわからない。日付情報が無くて時系列がわからない。何のために、誰のためにある情報なのか、背景情報がない……

情報資産という言葉はよく聞きますが、肝心の情報そのものが「情報」にならず、活用できないのであれば、データ容量を圧迫するだけの負債になりかねません。情報とは、ある一定程度の文脈や状況を共有し、目的を持って使われるものです。それらが無ければ、見た者には意味がわからず、読み解けはしないでしょう。情報化時代にはセンスメイキング(意味を成す、創る)の力が必要だと言われますが、せめて文脈を形成する助けになる断片くらいは、情報を共有する際に入れられるようにしたいと思っています。

いつかネクタイを着用しなくなる未来が来たならば、「ネクタイの旦那」という表現に行きあたった人は、これをなんと読み解くのでしょうか? 日々押し寄せる情報の中で、ふと祖母の庭を思い出す今日この頃です。

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