ウエイクアップの山田希です。
先日、久々に帰省したおり、
今年受験生の甥がなかなか勉強しない
との嘆きを姉から聴きました。
何でも国語の文法の試験で、
『犬』の品詞はなにか?との問いに
「動詞」だと答えたとのこと。
「だって動くから」
というのがその理由だと聞いて、
なるほど、いやそれはむしろ
それなりに頭がいいんじゃないか?
と思ったのですが、
受験を半年後に控えた受験生の
親である姉には
まったく共感されなさそうだったので、
余計なことは言わずにおきました。
学校で学ぶことの中には、意外に
高度な概念を含むものがあります。
私も学生時代、家庭教師のアルバイトを
していた際、分数が分からない、
という子に出会いました。
「『1』を分けるとはなんだ」
「『1』ってのは分けられないから
「1つ」と言うことではなかったのか?
『1』とは何か?」と問われ、
私は言葉に窮しました。
何かを学ぶ際に、一定のルールは
ひとまず受け入れて進む方が
効率的なことがあります
(例えば未知数はxと置く、など)。
「そういうものだから」と置いた方が
その先にあることを扱えるという
利点はあります。一方
「そういうもの」が多くなっていくと、
思考停止に陥る感覚もあります。
最近科学史や科学哲学に興味を持ち、
関連する本をいくつか読んでいるのですが、
「あの本が●●を作った」
「それまでの潮流を変えた」という
パラダイムシフトを起こしたその本を
読んでみても、感動がないことが多々ありました。
なぜならば、例えば生まれたときから
地球は地動説だと言われている私が、
地動説を初めて唱えた本を読んだところで、
「ふーん」としか思わなかったからです。
しかしふと、私は「そういうもの」を
当たり前に受け入れていて、だからこそ
感動がないのかな、と思いました。
地動説も、それが何を根拠にしているかを
詳細に知っているわけではありません。
ましてや体感値があるわけでもない。
それでも地動説の方が正しいと
知っているのはなぜか?
だって「そういうもの」だと教わったから。
「正しい」と言われたことを、ただ
疑いなく受け入れて信じているだけだった
ことに気づいたのです。
むろん、すべての知識をひっくり返して、
その根拠を理解していくのは
不可能に近いことも理解しています。
しかし「そういうもの」に
あまりに慣れきってしまうと、
正しいことを知っていても
その理由は分からず、「正しいこと」が
変わってしまったら、あっという間に
混乱してしまいそうな気がします。
職業人として、自分の担当分野だけでも、
「なぜ」を問う気持ちを忘れずに
いたいものです。
さて、犬は動詞だと答えた甥っ子に、
先生はどう回答したのだろうか?
答案用紙を覗いて見たいと思いつつ、
さて私だったらどう説明できるだろうか
と思いを巡らす夏の夜です。