散歩ができない

ウエイクアップの山田希です。
この度月1回、メルマガを担当することになりました。
どうぞよろしくお願いいたします。

在宅勤務となってから1年が経ちました。
私はスギ・ヒノキの花粉症。
毎年2月半ばからGW直前まで、通勤が
苦痛でならなかったのですが、昨年より
大幅に症状が軽減されました。

この時期が億劫でならなかった私は、
このまま一生在宅勤務でもいい、と
心から思いました。

とはいえ、人間は喉元過ぎれば熱さを忘れます。
花粉症が終わったらやはり外に出たくもなります。
運動不足も気になります。
定期的に通っている整体の先生に散歩でもするといいよ、
と言われ、早速実践してみることにしました。が…

散歩、が出来ないのです。
散歩とはぶらぶらと歩くこと。
英語でもwalk、そのまんま、「歩く」です。

最初のうちは言葉通り、目的もなく
ぶらぶらと歩いていました。
近くの神社に行ったり、公園に行ったり。
ところがそれも続かなくなりました。

初めは新鮮だった景色も見慣れてしまえば
ただの風景です。歩いても歩いても、
何か目につく変化がそうそうあるわけではありません。
ジョギングなどと違って、運動した感もありません。
そもそも目的がなく歩く、という行為を
意図的にすること自体が矛盾です。

こんなことをしていても意味がないのではないか。
無駄なのではないか。
なんの効果もないのではないか。

変なところでドツボにはまりました。
いいから歩けよと言いたくなりますが、
一度つまらないと思ってしまったら、
身体が動きません。

昔日本の神話を研究している人から、
なぜ人類は神話を作るのか、についての
持論を聞かされました。

曰く、人間は無から生まれて無に還っていく。
だが人間は無であることに耐えられない。
そこには何もないのだ、意味などないのだ、
ということに耐えられないから、神話を作るのだ、と。

神話は、ここにいる意味を教えてくれます。
あなたが何者で、どんな土地に生まれ、
どのような歴史のもとにここにいて、
だからこそ何をするのかを。

たかが散歩なのに、「なぜ私は歩くのか」と考えてしまう。
そこに意味なんかないんだよ、と言われることに、
わたしはきっと無意識に抵抗しているのかもしれません。

風呂敷を広げてしまいました。

で、結局散歩はどうなったかというと、
あまり意味を考えず、時々
気が向いたときにすることにしました。
無意味さの意味が、そのうち見えてくるかもしれません。

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