白いジョギングシューズ

ウエイクアップの山田希です。
わたしがジョガー(ジョギングする人)
となって約5年が経ちました。

ある冬にジョギングシューズを衝動的に
買う、というところから始まりましたが、
気持ちの弱い私。
冬場は寒さを言い訳にし、
春になったら花粉症で走れず。
決算担当の私は5月終わりまでは
何だかんだと忙しく、6月は梅雨。

ということで実際のところ7月から
11月くらいまでのせいぜい半年間だけしか
走ることができずにおりました。

しかしその後ついに
気候変動が体感値として感じられる
酷暑が続きます。
熱中症が危険視され、夏の暑さが
災害扱いとなりました。
気が付くと、走れる時期は
さらに短くなって年に3~4か月ほど。

これでもジョガーと言えるのだろうか?
と首をかしげるわたしですが、さて、
自分のアイデンティティを
どう規定するかは自分次第です。

アイデンティティが行動を規定し、
行動が人格を形作る。
などと言われたりしますが、
自分が何者か、という意識は
行動に反映します。

自分がジョガーと思って走るのと、たまに
気が向いた時だけ気休めに走っている、
と思うのでは、たぶん自分がイメージする
自分像が相当に異なり、行動も変わるはずです。

一方でアイデンティティの中には、
自分が思い描く自分のイメージ像だけに
とどまらないものも混じってきます。
年齢や性別、世代、人種、宗教、国籍、
学歴、職業、家族や組織、社会での役割…
自ら選べるものや、
変えられるものもありますが、
生まれたときから否応なくそこに属し、
自分を語るときに避けては通れないほど
自分の一部になってしまっている
ものもあります。

このような「社会的」アイデンティティは
悩ましいもので、
無条件に、なんの違和感も抱かずに
受け入れられる場合もあれば、
そこに馴染めないこともある。
馴染めない人にとっては
すべてが気になるのに、
受け入れている人にとっては
何が問題なのか分からない、という
分断も起こります。

自分がどんな属性を受け入れ、
何に違和感を感じているのか。
言語化して意識することは
意外に難しいものです。

多様性が増すなかで、20年前に
自分はこういう人間である、と
説明できた言葉では、もう説明がつかない
時代となっているのかもしれません。
そして自分が特定の属性に対して
どう考えているのかを意識しなければ、
知らず知らずのうちに誰かに対する
無言の圧力や、分断に
加担してしまうのかもしれません。

多様なアイデンティティが尊重される
世の中とはどんなものなのだろうか?

5年経っても真っ白な
ジョギングシューズを見るたびに
ジョガーとしてのアイデンティティが
年々揺らぐのを感じつつ、
走りながら考える2024年の夏です。

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