歩くから見えるもの

こんにちは。
ウエイクアップでエグゼクティブ・コーチや
リーダーシップ・プログラムを担当している
山田博です。

一説によれば、人間は他の生物に比べて
弱かったから木から降りて歩くことを
選ばざるをえなかったといわれている。
そして歩いたから脳が発達し、
道具を作り、抽象的な概念を生み出し、
協力することを覚え、生き延びてきた
ともいわれる。

『1万年の旅路
(原題/「The Walking people」)』
という私の大好きな本がある。
これはネイティブ・アメリカンの部族に
口承で伝わる部族の歴史を
初めて文字にしたもので、
なんとアフリカを出てからひたすら歩いて
北へ南へ東へと移動し、
気の遠くなるような時間を経て
北アメリカ大陸の五大湖のあたりまでたどり着く。
その間に起きた出来事を
物語として記録したものである。

これを読んでいると、私たちの祖先は
とにかく歩くことで生き延びてきたことが
よくわかる。
時に天変地異によって、
時に争いを避けるために、
祖先たちは大地を歩き移動した。

歩きながらよく観察し、
よく考えて新たな知恵を得て
子孫へと伝えてきた。
何が食べられるのか、
何が食べられないのか。
そうして伝えられた知恵の上に
今の私たちの暮らしは築かれた。

新型コロナウィルスで自宅にいた時期に、
私もよく家の周囲を散歩した。
そうすると、今まで気づかなかったものに
たくさん気づけた。
知らなかった道、
川がどこを流れているのか、
草花や素敵なお店などなど。

なぜ気づくかというと、
歩くのはスピードが遅いから。
早歩きでもせいぜい時速5キロ以下だ。
だからいつも車で通り過ぎていた場所で
思いがけずの発見があったりする。

コロナが落ち着いて日常が戻ってきた。
ほっとする面もあるが、
通勤電車は混んでいて、
地下鉄を歩く人々の様子も
以前のように慌ただしくなった。
スピードが上がると見えなくなるものが
ある、ということをついつい忘れて
先を急ぐ日常が戻ってきつつある。

先日、千日回峰行をされた
塩沼亮潤大阿闍梨の対談をYouTubeで
見ていたら、歩行禅を勧めておられた。

呼吸を整えて歩く中で
自ずと身体が整い心も見つめられ、
浮かんでくる考えが日常生活の自分に
重なって見えてくる、という。
歩くということは外にあるものを観察し
発見するだけでなく、内面的な気づきも
もたらしてくれるものでもある。

そういえば、ギリシャの哲学者たちも
歩きながら議論していたというし、
京都の哲学の道は哲学者の西田幾多郎らが
歩きながら思索した道だという。

コーアクティブなコミュニケーションでは
身体を使うことが
当たり前のように行われる。
身体は正直で自分の今の気持ちや状態を
そのまま表現しているからだ。

身体知という知性は頭脳の知性よりも早く
環境を察知していることも知られている。

歩くことで
見えていなかったものが見えたりすると、
発想やアイデアが広がる。
ならば、歩きながら身体を整え、
気持ちを感じ、自分と対話し、
浮かんできたアイデアを生活や
ビジネスに活かす、といったことを
日常的に活用しない手はない。

かくいう私も、
このメルマガで何を書こうかと
机の前で考えていたのだが、
散歩に出かけたらアイデアが
浮かんできて、カフェに寄って
こうしてまとめているところである。

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