人は分かり合えない

ウエイクアップの橋本博季(はっしー)です。

CTIでのコーチ育成や組織開発などの仕事を
10年以上する中でさまざまなクライアントや
組織と関わってきました。
その経験から一つわかったことがあります。
それは「人は分かり合えない」ということです。

この話をすると多くの人に驚かれます。
きっと「人は分かり合える」
という前提に基づいて、コーチングや
組織開発のような取り組みをしている方が
多いのだと思います。

僕も以前は「人は分かり合える」という
前提に立っていたかもしれません。
たださまざまな経験をする中で
「人は分かり合えない」
という前提に立つことがとても大事だと
体験的に確信するようになってきました。

「人は分かり合える」
という前提に強く立ちすぎると
「分かり合えないという状態は何か問題があるのでは」
という新たな問題を生み出してしまうのです。
自分にあるいは相手に問題があるか、
ということにもなりかねません。

「人は分かり合えない」という前提は
自分にとってポジティブな意味合いです。

よくある話ですが
以前とても苦手な仕事仲間がいました。
その人が言うことは自分の考えとあまりに違っていて
悪意のようにすら感じてしまいます。
ただ、こういう職業柄
「その人と分かり合えるはずだ」
という、無意識に強い前提に
当時は立っていたのだと思います。
そうするとまずは自分を責め始めるのです。

「その人を受け入れられないのは自分の度量が狭いからだ」
みたいな会話が自分の中で始まります。
すると面白いもので、自分の
本当に思っていることも言えなくなってきます。
なぜなら自分が間違っているので
思っていることにも自信がなくなるのです。

そして自分を責めるだけでは終わらず、
どこからか「お互い分かり合える」
ということを前提に持っているので
「相手にも問題がある」と思い始めます。

そうするうちにその人と関わること自体が
負担になってきます。
その人が参加しているイベントを
避けるようになっていく等です。
ただ現実として
仕事で関わることは無くなりません。
その人には関心や好奇心というよりも
「厄介な人」というレッテルが
無意識についているのです。

そしてこの状況の起点は
「人は分かり合える」という強い前提です。
とても皮肉なものですね。

「人は分かり合えない」
という前提に立ってみると、
少し気が楽になる感じがします。
分かり合えないことは普通だと思えると
何か義務感から解放される感じがあります。
もし分かり合えないことがあっても
自分や相手を責める必要がないからです。

もっと言えば
分かり合えないからこそ、
相手を分かった気にならず
関心や好奇心を向けようと思う
源泉になります。
分かり合えたと思えば
それ以上知る必要もありません。

「彼とはお互いよく分かっているので問題ない」
と言っている管理職のマネジメントが
一番危ないというマーフィーの法則(?)もうなずけます。

相手に関心を向けている状態が
人と人を繋ぎます。関係性の土台です。
分かり合えるかどうかは
あまり関係ないのかもしれません。

分かり合うことができなくても、
必要な関係が創り出せると思うと
人間関係をはじめ、さまざまな意味で
人生が楽になる感覚もあります。
しつこいようですが大事なのは
関心や好奇心を向け続けることです。

「違いが大事だよね」みたいな表層的な
コミュニケーションの帰結ではありません。
関心を向けることは違和感や
居心地の悪さを感じることも含まれます。
それも大事なプロセスです。

冒頭のタイトルをもう少し補足してみると
「人と人は分かり合えない、でも必要な関係は創ることができる」
ということになります。

ちなみに以前苦手だった人は未だによく分かりません。
でも今は厄介ではないし、
仕事をするのも苦痛ではありません。
これで十分です。

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