モニターを離れ、町に出よう

ウエイクアップの山田希です。

先日、体調を崩しました。
朝から微頭痛があり、
それほどひどくはなかったので
そのまま続けたのですが、たまたまその日は
オンラインミーティングが続いた日でした。

次第に痛みが増し、最後の方にはヘッドホンで
音を聞いているだけで吐き気がし、
頭が割れるような耐えがたい状態となり、
画面を見ることも出来なくなったため、
早々にその日は切り上げて横になりました。

在宅勤務が長くなり、より多くの活動が
オンラインに移行するにつれ、
目や耳を酷使することが増えました。

私は仕事の関係上細かい数字を追うこともあり、
そうでなくとも画面を凝視することが多々あります。
今やすべての情報が目または耳から入ってくる
ことがほとんどで、仕事でもプライベートでも
スマホやタブレット、パソコンから離れられません。

対面ですと目や耳に限定されず、
五感を使って情報を得ています。
例えば人に会っても見た目の印象、匂いや
体の動かし方、握手したときの温度や触感など、
様々な情報を得ています。オンラインでは
限定された知覚を通じて情報を得ているから、
うまく統合ができないのかもしれません。
そしてだからこそ、眼が疲れて
頭痛を引き起こしたのかと考えました。

しかし、ふと思い返してみると、
昔コーチングを学んだ時に電話で行っていた時は、
これと違った感覚を覚えました。

当時(大体10年前)はまだ動画での
通信サービスはほとんどなく、音声のみで
会話をしていました。
情報がさらに限られる状態で、今よりさらに
ストレスが高かったかと振り返ってみると、
そうでもなかったな、と思ったのです。

音声しかない状態で集中して聞いていると、
けっこういろいろなことが聞き取れるものです。
声のトーン、話し方、ペース、言葉遣いなどから、
相手の状態や感情がなんとなく感じ取れましたし、
それがストレスになることはありませんでした。

はて、では今の環境とその時と、何が違うのだろう?
と考えてみると、その機能をフルに使っているかどうか、
ということなのかな、と感じました。

耳というのは、音を聞く・聴く器官です。
音声のあらゆる要素をどう聞き取るかに
特化しているとも言えます。
コーチングを電話でやっていた時、
声というものからあらゆる要素を聞き取る、
という、ある意味耳にとって
本来のはたらきに沿った使い方をしていました。

他方、目というのは物事を立体的に把握します。
遠近も測りますし、陰影も感じています。
色を識別し、物の動きをとらえて焦点を自在に動かし、
視点を動かす度にズームインとアウトを
適宜調節してくれます。
かつては自分を追う捕食者から身を守るために
発達した機能であり、ターミネーターのT-800のように
データベース検索まではしてくれませんが、
かなりの高い機能を誇ります。

ところがオンラインでは、これらの機能が
ほとんど使われません。
私とモニターの距離はほぼ変わらず一定であり、
映る相手はすべて二次元上の表示です。

頭では相手が三次元の、立体的な人間であると
思っているにもかかわらず、
実際に捉える相手は二次元です。
目はそもそも同じ距離の平面をずっと
見続けることを前提に機能発達してきていない。
だから疲れるのではないか――

目は口ほどにものを言う、と言いますが、
このままでは筋肉が凝り固まった、
二次元でデジタルな物語しか語れない器官に
なってしまうかもしれません。

頃は春。時折は画面を離れ、外に出て
三次元世界をしっかりと感じたいと思います。

ちなみにタイトルは寺山修司の
「書を捨てよ、町へ出よう」を勝手に拝借して
もじっていますが、モニターを捨てよ
とは書けなかった、デジタル依存の私でした。

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