ウエイクアップの山田博です。
コーチとして独立して18年になる一方で、
畑や森での活動も15年ほど続けている。
ビジネスの領域で人が本領発揮するのをサポートする立場と
自然の摂理に沿いながら野菜を育て、
森という生態系に触れることをいったり来たり
していると、時に両者の境界線が曖昧になり、その間に
ある共通なものや違いが少しづつ見えてくるようだ。
そのあたりを明確に言葉にするのはなかなか
難しいことだが、植物たちの生きる姿から
私たち人間が生きる上でのヒントを
見つけることもできるかもしれない。
当たり前のことだが、
草木の種はどこに落ちるかを選べない。
もちろん種の存続のために、
動物や虫たちの力を借りて種を運ばせる
様々な戦略は知られているが、それだとしても
どこに行き着くかはやはり選べない。
さて、これまた自明だが種が落ちたら
植物はそこから動けない。
その場所で自分の種のポテンシャルを
最大に開くために精一杯の努力をする。
その環境を憂いたり、文句をいったりしていない。(ように見える)
頼りは種の中にあるポテンシャルのみ。
タンポポはタンポポで、杉は杉。
別の何かにはならない。
ただその種がなりうる姿になるのみ。
さらに植物は生きるために、そこにある環境である
土、菌類、空気、太陽光、虫、風、雨たちと
協力し続ける。
いったいどうやってそれらの存在と
コミュニケーションをしているのだろう。
木々の根と菌類の共生関係など、
目には見えないレベルでの繊細なやりとりが
日々行われていることは少しづつ解明されつつあるが、
そこにはまだまだ膨大な未知の世界が広がっている。
複雑に絡まり合った相互依存関係。
協力をやめれば成長もそこで止まる。
協力し合うことで生きている。
芽をいつ出すのか、花をいつ開くのか、
葉をいつ落とすのか。
そしていつ枯れるのか。
植物は時を知っている。(ように見える)
足るを知る、と時を知る、はどこか共通した
響きがあるように思う。
その瞬間に起きることについての積極的な諦め
とでもいえるような感覚。
それが何であれ、受け容れるということ。
森の中に巨木が倒れている。
倒れた木に苔が生え、菌類が分解して土に還っていく。
生と死の境い目がぼんやりとしている。
大きな木が倒れると、スペースができて日が当たり、
他の幼木たちが我先にと伸びていく。
いつまでも立ち続ける木はいない。
このような植物たちの様相を観ながら
さて、人間はどうか。
自分の中にある可能性。他の何者かになるのではなく、
自分という存在そのものとして生きる。
誰かとの間に起きる軋轢や対立を超えて協力すること。
いつ動くか。いつ止まるか。
今の状況に満ち足りているかどうか。
植物の生き方から学べることは多い。